週末に市ヶ谷フィッシュセンターに行った。
熱帯魚や両生類、爬虫類を販売するお店としても十分楽しめるのだが、一番の特徴はなんといっても釣り堀である。この釣り堀、JR市ヶ谷駅のホームからも見えるので、ご存知の方も多いのではないかと思う。前から一度は行ってみたいと思っていたところなので、どんなところなのかワクワクして、5歳の息子と一緒に行った。
駅のホームから見える広い釣り堀には大型の鯉が放されているようであったが、息子にはまだハードルが高すぎると思い、その釣り堀の手前にあった、全長10mくらいの流れるプールのような水槽で行える、ミニ・フィッシングというのをすることにした。
ミニ・フィッシング用の水槽内には、5cmくらいの赤い魚や黒い魚が大量に群れを成して泳いでいた。赤い魚の見た目は明らかに金魚。金魚なんか釣れるのか!?と半信半疑だったが、お店で竿をエサを借りて糸をたらしてみたら釣りが初めての息子も30分で3匹釣ることができた。そのうちの2匹をつれて帰れるということで袋に入れてもらい、地下鉄に乗って自宅に持って帰った。
翌日、近所のホームセンターで水槽を手に入れ、早速そこに放してやれやれと眺めていて「?、、、あれ?」と気づいた。2匹のうち1匹に、ヒゲがある。「。。。」
ネットで確認。そして判明。
どうやらその1匹は鯉のようである。。
実はその可能性というのは事前に把握してた。お店のHPにミニフィッシング用の水槽には金魚や小さな鯉が放されていると書いてあった。でも小さな鯉というのは黒っぽいやつで、真っ赤なやつは金魚だろうと高をくくっていたのだ。金魚だろうと安心してつれてきた2匹のうち1匹は赤い鯉だったようだ。
赤い鯉。単純に嬉しい。テンション上がる。飼うぞやったー
でも用意した40cm水槽でどこまで飼えるのか。。
そして金魚がその赤鯉に追いかけ回されており、尾びれがやや痛んできている。接触しないように分離飼育した方が良さそうだ。
これから、暴れん坊の赤鯉とノーマル金魚が共生できる道を探っていきたい。
2014/06/01
仮説: 「過去」の研究者には周囲からの愛が足りていない
僕ら30代は間違いなく100年後には死ぬ。ここ数十年で科学が進歩しても、まあ変わらないだろう。
人類の進化史とか観ていると、1万年くらい前から農耕やら狩猟やらがでてきて今の世界の形成に直結するような出来事が起こってくるわけだけど、そのスケールからしたら100年なんていうのは1/100である(ちょっと言い回しがエラそうになっているのは直前に読んだ本の著者である村上龍氏の影響?)。その1/100の時間に、100倍の時間スケールの人類史に想いを馳せたり、自分の前の研究対象であった「ほ乳類の起源」なんていうのは3億年も前だから300万倍もの時間スケールの進化史に想いを馳せたりすると、自己愛が増幅する。そういった大きなスケールに想いを馳せると、それと比較して自分が小さいことを実感するとかそんないかにもな感覚は湧いて来ず、逆に消耗品のオス(龍氏の影響受け過ぎ)である自分にもいいものがあることが感じられるのである。
歴史は、自分に価値があることを感じさせてくれる。これはウォーレスとダーウィンの進化論のお陰である。生き残って今ある自分は、その存在自体により自動的に「勝者」、すなわち価値のある存在であることが保証されるのである(ここで「勝者」という単語についている「」は進化論の文脈であることを意味している)。これは別に新しい意見ではないのだが、意外とみんな普段は自覚していないのではないか。でも実はこの思想は全ての人に最低限の尊厳を保証する思想であり、全ての人はこの思想をベースにもっと自信を持ってもよさそうなものである。が、多くの人はそれに頼らない。おそらく大部分の人はそれに頼らなくても自己愛が成立しているのだろう。そう考えると、この最低限の尊厳を保証してくれる思想をまといながら日々生活しているであろう、進化や歴史などの「過去」の学者は、それ無しには自己愛が成立しないほど貧しい状態にあるのかもしれない。
仮説: 「過去」の研究者には、周囲からの愛が足りていない。
(ちなみにほ乳類の起源を少し研究していた私はたびたび自画自賛タイプであると評される。n = 1。)
人類の進化史とか観ていると、1万年くらい前から農耕やら狩猟やらがでてきて今の世界の形成に直結するような出来事が起こってくるわけだけど、そのスケールからしたら100年なんていうのは1/100である(ちょっと言い回しがエラそうになっているのは直前に読んだ本の著者である村上龍氏の影響?)。その1/100の時間に、100倍の時間スケールの人類史に想いを馳せたり、自分の前の研究対象であった「ほ乳類の起源」なんていうのは3億年も前だから300万倍もの時間スケールの進化史に想いを馳せたりすると、自己愛が増幅する。そういった大きなスケールに想いを馳せると、それと比較して自分が小さいことを実感するとかそんないかにもな感覚は湧いて来ず、逆に消耗品のオス(龍氏の影響受け過ぎ)である自分にもいいものがあることが感じられるのである。
歴史は、自分に価値があることを感じさせてくれる。これはウォーレスとダーウィンの進化論のお陰である。生き残って今ある自分は、その存在自体により自動的に「勝者」、すなわち価値のある存在であることが保証されるのである(ここで「勝者」という単語についている「」は進化論の文脈であることを意味している)。これは別に新しい意見ではないのだが、意外とみんな普段は自覚していないのではないか。でも実はこの思想は全ての人に最低限の尊厳を保証する思想であり、全ての人はこの思想をベースにもっと自信を持ってもよさそうなものである。が、多くの人はそれに頼らない。おそらく大部分の人はそれに頼らなくても自己愛が成立しているのだろう。そう考えると、この最低限の尊厳を保証してくれる思想をまといながら日々生活しているであろう、進化や歴史などの「過去」の学者は、それ無しには自己愛が成立しないほど貧しい状態にあるのかもしれない。
仮説: 「過去」の研究者には、周囲からの愛が足りていない。
(ちなみにほ乳類の起源を少し研究していた私はたびたび自画自賛タイプであると評される。n = 1。)
2014/01/26
親子関係と思春期の子供の非行について
元暴走族総長で建設会社社長の加藤秀視さん。
彼は自身の過去の経験を活かして、社会的に問題があるとされる若者の更正にボランティアで取り組んでいる。
2時間くらいかけてのいくつかの動画を観て色々考えさせられたので書き留めておきたい。
例えば以下の2つ。
これらを観ると、思春期に社会的な問題行動を起こす子供のほとんどが、小さい頃もしくは現在、親との関係に一定の問題があり、それが問題行動の原因となっているようだった。
親との関係の一定の問題、というと極端なものをイメージしてしまうかもしれないが、意外にもそれはどんな家庭でも起こりそうな些細なものであり、例えば「仕事が忙しくて子供と一緒に食事ができなかった」とか、「小さい頃にかわいがりすぎて厳しくすべきところで厳しく出来なかった」といったことがきっかけになっていることも多いようだった。そして多くの場合において根本的に問題にされていたのが、「親がどれだけ真剣に子供と向き合っているか」ということだった。仕事で忙しかったり自分の都合で子供との約束を守らなかったりということを繰り返しているうちに、子供の心は親からは離れていくように思えた。そして親子関係が満たされない子供の中には、その気持ちを主張するために、社会的に問題があるとされる行動に向かうことがあるようだった。
僕自身は、社会的に問題があるとされている思春期の典型的な行動、例えば学校に行かないでフラフラしていたり学校の先生に盾突いたりすることが必ずしも100%悪いとは思わないし、時代が変われば容認されてしまうようなものもあると思っている。それでもやはり自分の子供にそういうことをして欲しくないのは、問題行動を起こしている当事者自身が幸せそうにしていないことにある。そして周りの家族も幸せそうでない。本人達も楽しくないと言っているし、親はその状況を変えたいと思っている。これが問題だと思う。親としては子供に幸せになってほしいし、自分も幸せでありたい。
親になってから、子供とどう接していくべきか、考える機会が増えた。変にテクニカルなことを気にするのではなく、「子供と真剣に向き合うこと」。これ一点を、真剣にやっていきたいと思う。
2011/02/26
休日
今日は休み。子供の好きなアンパンマンの本を読み聞かせる会に行った後、近くで評判の讃岐うどん屋で昼食を済ませてその足で食料品の買い物をして帰宅。普段の休日より大分活動的だったせいか、帰宅後夕飯を作る前に1-2時間ほど家族3人でうたた寝をしてしまった。夕食時にはレンジで魚が焼ける魚焼きパックを初めて使用してみたが、しっかり魚が焼けた。小林製薬、やるねー。明日はぼちぼち学校に行くつもり。
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