2017/12/09

嗅覚と味覚のクオリアが似ている

視覚、聴覚、体性感覚それぞれ他のどれとも似ていないユニークなクオリアを持つ似ている。それらに比べ嗅覚と味覚のクオリアはよく似ている。

ここにクオリアの神経基盤に関するヒントが隠されている気がする。嗅覚の神経活動と味覚の神経活動の共通点を見いだし、それらが他のどの感覚の神経活動とも異なればそこに味覚や嗅覚っぽいクオリアを生み出す神経基盤の特徴を見いだすことができるのではないか。

興味深いことに、嗅覚と味覚は他の感覚と異なり、chemoreceptorでchemicalを検出する感覚である。と思ったが、かゆみも同様にchemoreceptorでchemicalを検出した結果だ。が、クオリアは嗅覚や味覚とかなり異なる。stimulus energyやreceptor classがクオリアのモダリティを決めているわけではない。まあ当たり前か。

「私は考える、ゆえにわたしは存在する」には賛同出来ない

デカルト「方法序説」
p47-48
「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの命題において、わたしが真理を語っていると保証するものは、考えるためには存在しなければならないということを、わたしがきわめて明晰に分っているという以外にまったく何もないことを認めたので、次のように判断した。わたしたちがきわめて明晰かつ判明にとらえることは全て真である、これを一般化な規則としてよい、、、、
p54
われわれがきわめて明晰かつ判明に理解することはすべて真であるということ自体、次の理由によって初めて確実となるからである。神があり、存在すること、神が完全な存在者であること、われわれのうちにあるすべては神に由来すること。


→つまりわたしは存在するということの根拠が、「考えるためには存在しなければならない」という「理屈」にあると考えているらしい。そしてその根拠が神の存在。
→つまり僕が考えている根拠である「自明性」とは明らかに異なっている。したがってデカルトの言う「私は考える、ゆえにわたしは存在する」というのは僕にとっては真ではない。僕にとって心底納得できることは「私は考える、ゆえにわたしは存在する」ではなく、「クオリアがあること」であり、根拠は「必然的な自明性」である。理屈は不要。