2014/06/01

仮説: 「過去」の研究者には周囲からの愛が足りていない

僕ら30代は間違いなく100年後には死ぬ。ここ数十年で科学が進歩しても、まあ変わらないだろう。

人類の進化史とか観ていると、1万年くらい前から農耕やら狩猟やらがでてきて今の世界の形成に直結するような出来事が起こってくるわけだけど、そのスケールからしたら100年なんていうのは1/100である(ちょっと言い回しがエラそうになっているのは直前に読んだ本の著者である村上龍氏の影響?)。その1/100の時間に、100倍の時間スケールの人類史に想いを馳せたり、自分の前の研究対象であった「ほ乳類の起源」なんていうのは3億年も前だから300万倍もの時間スケールの進化史に想いを馳せたりすると、自己愛が増幅する。そういった大きなスケールに想いを馳せると、それと比較して自分が小さいことを実感するとかそんないかにもな感覚は湧いて来ず、逆に消耗品のオス(龍氏の影響受け過ぎ)である自分にもいいものがあることが感じられるのである。

歴史は、自分に価値があることを感じさせてくれる。これはウォーレスとダーウィンの進化論のお陰である。生き残って今ある自分は、その存在自体により自動的に「勝者」、すなわち価値のある存在であることが保証されるのである(ここで「勝者」という単語についている「」は進化論の文脈であることを意味している)。これは別に新しい意見ではないのだが、意外とみんな普段は自覚していないのではないか。でも実はこの思想は全ての人に最低限の尊厳を保証する思想であり、全ての人はこの思想をベースにもっと自信を持ってもよさそうなものである。が、多くの人はそれに頼らない。おそらく大部分の人はそれに頼らなくても自己愛が成立しているのだろう。そう考えると、この最低限の尊厳を保証してくれる思想をまといながら日々生活しているであろう、進化や歴史などの「過去」の学者は、それ無しには自己愛が成立しないほど貧しい状態にあるのかもしれない。

仮説: 「過去」の研究者には、周囲からの愛が足りていない。
(ちなみにほ乳類の起源を少し研究していた私はたびたび自画自賛タイプであると評される。= 1。)

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